2013年2月4日月曜日

三島由紀夫について

長らくほったらかしにしてしまって申し訳ない。三島由紀夫は私にとって思い入れの深い作家であるだけに、何かと書く前に身構えてしまい、なかなか書く勇気が出なかった。しかしまあ手を動かしてみない事には何も始まらないし、未だ心の準備もできていない書きたい事も定まってはいない状態ではあるが、とにかく書くだけ書いてみようと思った。因みに三島由紀夫の場合、全集に載っている順番が長編、短編、戯曲、評論といった具合なので、それに合わせてこのブログでも「そのカテゴリー毎の時系列」という順序で作品を取り上げていきたいと思っている。なので最初は長編から入る。

さて、三島由紀夫は早熟の作家である。16歳の頃の短編で『花ざかりの森』という作品があるが、この作品からして内容が難解すぎて、一読しただけでは殆ど理解不可能である。この頃からそういう内省的な書き方をする人だったのだ。この作家は生涯を通じて(後半では大分丸くなったが)こういう文章を書く人だったので、そういう片鱗はこの頃から見られていたと言って良いだろう。

後半生では多少丸くなったものの、基本的には会話や事象の羅列よりも、自己の内面を精緻に描く事に主眼を置いたスタイルは、どうやっても難解にならざるを得ない。抽象的な、不可視な、複雑なものを流麗な文体に乗せて書いていくというスタイル。哲学的というか、客観的な描写よりも人間の心情を深く掘り下げて微細に観察し、それをまた抽象的な言葉で複雑に説明している文章が多いため、登場人物の心情が実に分かりにくい。しかも言葉は難しいわ、日本文化に関する知識、教養は他の追随を許さず、凡人には聞いた事もないような家具や調度品が頻繁に出てくるわという有様で、敷居が高い事この上ない。格調高いと言えば聞こえは良いが、要はお高くとまって気取っているのである。しかし三島は実際にそれだけの実力があるのだから、お高くとまって気取る権利はあると思うのだが。

三島由紀夫がよく「子供っぽい」とか評されるのも恐らくこの辺りが原因だろう。語彙の豊富さ、表現の豊かさ、思考の複雑さ、知識・教養の広さ、そうした自身の能力をぎっしり詰め込んでひけらかしているように見えるのである。音楽で言えば、ドリームシアター的(と言って分かるかどうか知らないが、テクニカル系のヘビーメタルバンド)と言った感じで、エリート志向の芸術、作品そのものよりも作家がスゴいと言われるような芸術なのである。自己顕示欲の強い少年がヘビメタに走り、ギターの速弾きをしようとするのが子供っぽいのは分かると思うのだが、三島由紀夫も実はこうした自己顕示欲を前面に出して、自己の能力の高さをアピールしている点においては少しも変わらない。

何だか、三島由紀夫を大分こき下ろしたような形になってしまったが、私は三島をそれでも愛しているのである。なぜなら上に挙げた三島の特徴が、そのまま三島の良さでもあるからである。上に挙げた三島の誇示するもの、つまり語彙の豊富さ、表現の豊かさ、思考の複雑さ、知識・教養の広さ、といったようなものが、三島の場合全て本物なのである。本物であれば、いくらひけらかしたって構わないではないか。いや、むしろ謙遜などせずにどんどんひけらかしてもらいたい。その方がよほど正直で誠実な態度だし、私のような平凡な読者にはその方が刺激的である。

肩の力を抜いてひたすら自由を求める文学もあれば、その逆に肩肘張って知識教養を求める文学があっても良い。後者の三島はどこまでも芸術を格式の中で捉えていた。だから三島は評論も素晴らしい。豊富な古典文学の知識に裏打ちされた精密な論理で、あっと言う間に引き込まれ、文学の見方を変えてくれる。三島にとっての文学とは、芸術というより学術と言った方が良いかも知れない。

取り留めも無くなってきた。次回から本題に入る事にしよう。